p_shirokumaさんのコメントに返信してみた

思いの外良くまとまったので、もったいないから記事として載せて見ようかとw

もし、poporoさんと私との間で見解の相違があるかもしれないとしたら、以下の二点あたりになるのでしょうか(そうじゃないかもしれませんけど);

1.DQNはともかく、「考えたうえで」「見えたうえで」「痛いものを痛いと分かったうえで」、つまり痛むこと痛めることを承知したうえで、それでも関わる人達というのは確かに存在している。でもこれはpoporoさんもご承知のような予感。
2.DQNは他者の痛みに鈍感。オタは自分の痛みに敏感。ここまでは間違いないと思うんです。が、オタが他人の痛みに本当に敏感なのか、それとも「他人を傷つける俺の後ろめたさ」に敏感なのか、もし後者だとすれば、オタクが本当に他人を傷つけることをおそれる人種なのか疑問を投げかけておく必要があるかもしれません。また同時に、DQNが自分の痛みに鈍感なのか、それとも偶々痛みを被る機会を外部に曝す機会が少ないだけなのかもまだ私には分かりません。
 
 実は立ち位置やコミュニケーションの実行機能の多寡や知識(智慧ではなく知識)の多寡といった違いこそあれ、心的傾向としては「オタクもDQNも自分の痛みに敏感で他人の痛みには鈍感」という共通点を持っているという可能性は無いでしょうか?そしてオタのDQN叩きとDQNのオタ侮蔑が同族嫌悪だったら??勿論これは穿った見方だと思いますし、万事が万事そうでもないでしょうけど、なんかそんなようなことを夢想しながらお返事を拝見させていただきました。


まず、1について。
コレに関しては、ご明察といいますか、一応思いついてはいました。ただ、考え出すと切りがない部分でもあるので……。表面的な部分に過ぎませんが、一応思いついていたモノをあげておきますね。

パターン1:人格障害反社会性人格障害自己愛性人格障害が主。昨今、人格障害は珍しい症例ではないということがよく言われますので、こちらの方が割合的には多いかと思います。
パターン2:趣向。性的な趣向が主。サディスティック行為に快感を覚えるが故に傷つける。

ともに、『わかっている』上で傷つけることが出来ますので、シロクマさんの疑問に解答できるかと思います。


次に、2について。
コレに関してはかなり難しい部分ではあると思います。ですが、そもそも他者の痛みというモノを感じ取る場合に、どういう経緯でそれを感じるのかという『経路』を考えてみると糸口が見つかるような気もしています。

主立ったモノを具体的に説明してますね。

パターン1:他者の傷みを『他者』が傷つく姿を想像することで感じ取る。これは、相手の立場に立った上での行為であり、主観は混じりはするが理解するための手段として組み込まれる。つまり『共感』です。
パターン2:他者の傷みを『自身』が傷ついた経験に照らし合わせ、その経験を今の自分にフィードバックすることにより、不快感を感じる。これは、相手の立場に立つのではなく、自身の経験を思い出すことにより相手に自分の姿を投影することによって痛みや不快感を感じるため、主として存在しているのはやはり自分である。つまり『同情』です。

シロクマさんの論理の場合、後者の方を採用すると解答できる気がします。もちろん、全てを説明することはできませんが。
さて、どちらの方が多く起こりえるのか、というのが今回の争点であると思うのですが、正直に言わせていただければ、わかりません。ただ、少し悲しい話ではあるのですが、『共感』というものは高度なコミュニケーション能力のたまものであるとされるので、そう考えますと……まあ、オタクにとってのコミュニケーションの定義が曖昧なので断定するつもりはありませんし、穿ちすぎだと思うのですがね?(というかそうであって欲しい)



マニュアル否定派なんですが、やはり、こういう議論って楽しいと思えてしまいますw なんていうか、思考ゲームみたいで。もしかしたら、マニュアルがはやった理由って、単純に『楽しいから』だったりして……(割と本気で言ってる)。