コミュニケーション欠乏症

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 ちょっと思うことがあってので書いてみる。本筋からちょっとずれてるので、それを踏まえたうえでお読みください。
 

 スイッチを入れたらそこに人がいて、スイッチを消したら人がいなくなる。リアルでのコミュニケーションを煮詰めてそのエッセンスだけを取り出したモノが、ネット(広義の意味でのネット。携帯なども含む)上のコミュニケーションだと俺は思う。
 そういう風に捉えた上で、焦点を絞って見てみると、

ある時「自分は友達も多いし偏差値も高いし何の不満もない。コンプレックスもトラウマも感じた事がない。でも・・寝る前に1人でいる事が耐えられない。何かわからないがイライラする。あー・・何なんだよ・・わからない・・なんで1人にならないといけないんだよ」といきなり泣き出す場面がありました。

こういった不安感の原因は『お手軽過ぎる』ってとこにあるんじゃないかなって思う。寝る前にちょっとネットでコミュニケーションを取る。すると、布団の中で考える今日一日の出来事などで、最近、ついさっきやってたことはネットでのコミュニケーションなわけだ。そして、それは眠くなったらちょっとことわってスイッチをきればいような関係。スイッチを切ったらコミュニケーションは終了。すぐにでも布団に入れる。そういった簡単さが不安感を招くんじゃないだろうか。
 リアルとネットの混同、なんていうとありきたりすぎるけど、二つの境目がはっきりしていないが故に、ネットにおけるそういったお手軽感をリアルの世界にまで感じ始めてしまったんじゃないかと思う。人間関係は複雑なものほど強固だっていう実感、そういったモノは多分結構な人が持っているんじゃないか。そういった考えは多分、世代が変わってもそうそう無くなるモノではない。切っても切れない関係、それこそが強固な人間関係だって言う考え。試験ためにすごく勉強したとき、実際にテストを受けてみたら問題がすごく簡単で、間違いなく解けているはずなのに簡単すぎて何か間違っているんじゃないかという不安。引っかけか何かあるんじゃないかという不安。簡単すぎるモノよりも、複雑なものの方が人は安心できるんじゃないだろうか。
 だとすると、簡単に切れてしまうスイッチをリアルにまで感じてしまったら、それは泣き出したくもなるだろう。今まで築いてきたモノ全てに、スイッチがあって、押せば切れてしまうモノだと感じ始めてしまったら自己なんてモノはもうばらばらだ。
 だからきっと、これは依存ですらなく、欠乏なのではないかなとおもう。堅さという質が望めないから数という量を求める。ただ足りない。物足りない。無くならないという実感がないからいつまでたっても満たされない。根本的な部分を解決することが出来ないからいつまでたっても欠乏したまま。だからさらに数を求めて、お手軽簡単に量を得られる方法を選択していく。その具体的な方法がid:i04さんのいう『無難』だったりid:p_shirokumaさんのいう『小さなニッチの内側でだけ人知れず吹き上がる』ことなんじゃないか、とおもったり。