私は特別教

スピリチュアルに嵌る人の病的な部分 - 痛むこころを抱えて
夢見過ぎちゃうん! - 痛むこころを抱えて

 ココでも少しふれてるけど、自己愛性人格障害反社会性人格障害など、人格障害はそう珍しいモノでもなくなってきていると言われてる。こういうのって『個性を大事に育てましょう』的なキャッチフレーズから派生して生まれた『自分流』だとか『自分らしく』だとかを無条件で許容しようとする風潮が原因じゃないかなと思う。
 じゃあ何でそういった何にでも『個性』って言葉を持ってきて許容しようとする風潮が生まれてきたかって言うと、『生きる価値』みたいなモノが感じづらくなってきたからじゃないだろうか。
 極端なことを言うと、中世や近世において人は生きているだけで価値があった。例えば年寄りと呼ばれる人間は「亀の甲より年の功」といったことわざにもある通り、長く生きてるということがデーターを多く蓄積しているという証明になり、ただ長く生きていると言うだけで価値が生まれていた。昔は、年を取るというただそれだけの自然現象にも価値があった。でも、今は違う。ただ長く生きているだけの人間は邪魔扱い。極論的な言葉として「老害」なんてものもある*1。現代では人はただ生きているだけではその価値を認めてはもらえない。価値ある行為、もしくは価値ある行為をなせる能力の所有を証明しなくては価値を見いだしてもらえない。ただ生まれてきただけでは、人は認めてもらえない*2。生まれた後、どう生きたかによって価値が決まる。そしてその生き方は、他者と同じモノでは代わりになるモノがたくさんあるということになるのだから、他者とは違うモノでなくてはならない。
 故に『個性』に固執する。自分は他人とは違うぞと、俺は価値があるんだぞと、そう声高に叫ぶ。他人と違わない自分は価値がないんだと、きっと誰もが無意識にそう思っている。だから優劣をつけ、それに勝てないならば、誰もいない分野に自分をおいて、少数だから自分はレアだと主張する。代表例が「中二病」とか「なんちゃって精神病」だ。そして「スターチャイルド*3」って言葉を使う人間も「私の子供は他人とは違うのだから価値があるのよ」と『異なっている』をいうことに価値をおこうとしている。それが良いとか悪いとかではなく、ただ『違う』ということに価値があるんだと主張する。伊坂幸太郎陽気なギャングが地球を回すで主人公の息子である自閉症のタダシを病気を患っているが故の純真さを肯定どころか賞賛したように、病気であるということが正しく特別であるが故に、それは他者より優れているんだと『個性』という言葉を使って主張する。
 本来、病気は病気だ。本当にまれな例を除いて価値など無い。病気は治るに超したことがない悪い状態だ。でも、その悪い状態にすら価値を見いだそうとする。『違う』からと価値を見いだそうとする。そして、実際に価値を見いだして、周りもそれを肯定しだす。でも、それはそうでありたいという心の動きであって、社会的な価値などあるわけがない。すると、価値というモノを「社会」という範疇において見定める人間にとっては、そういった人間はただの劣等者だ。それも極上の。だから、例えば小さな「社会」である学校においては、学生という「社会」の一員として「社会」の範疇で他人を判断する人間にとっては、格好のいじめの対象、もしくは自己を高めるための憐れみの対象でしかない。そしてそれが、本来の反応だと俺は思う。小さな「社会」も大きな「社会」も本質はそう変わらない。
 『違う』『異質』は『個性』ではある。だが『個性』には別に価値はない。価値があるのは『能力』だ。『個性』は『能力』に付随しなくては特別な価値はない*4。そこに価値を見いだそうとすると、歪む。歪ませずに価値を見いだそうとすると伊坂幸太郎陽気なギャングが地球を回す自閉症のタダシを「未来が見えているようだ」と表現したように、無理矢理超常的な価値を持たせるしかない。そういった無理矢理価値を見いだそうとする行為が『スピリチュアル』だ。だから、お手軽に自分に価値を見いだしたい人間は『スピリチュアル』にはまる。そして、超常的なものにはまるなんておかしいとつっこむと「確かにそうかもしれないけれど、そういう超常的な部分を抜いても言ってることは正しいと思う」と『個性』に価値を認める価値観を肯定する。そうすれば、生きてるだけで価値があるんだと『スピリチュアル』は語ってくれているのだから、お手軽に価値が手にはいる。それは楽な行為だし、精神的に楽にもなる。これでは、嵌るなというほうが難しいと思う。肯定するなという方が難しいと思う。
 これらの現象は社会病理だ、なんていうと穿ち過ぎな気もするけれど、たぶんそういうカテゴライズでいいんじゃないだろうか。現代社会が生んだ病気。全部ひっくるめて『認められたい症候群』とか、もしくは『私は特別教』なんて表現もいいかもしれない。まあ、「じゃあ直せるの?」「直せるなら方法は何?」と聞かれても答えられない以上、そんな風にネーミングする行為に意味なんてないんだけれども……。

(追記)
「原因」としての発達障害、「症状」としての人格障害<id:iDESさんのコメントへの返事として> - こころ世代のテンノーゲーム
多分コレ、俺の意見とは正反対だ。面白いので一読をオススメします。

*1:そういういった風潮に対するカウンターとして『美しく年を取る』みたいな提案が生まれたんじゃないだろうか?

*2:あくまで社会的な価値。経済的には当然生きているだけで価値はある。

*3:リンク先からの引用:あなたはスターチャイルドインディゴチルドレンクリスタルチルドレンレインボーチルドレン)で、この世を救うために来たのよ

*4:『個性』を否定するつもりはない。ただ、肯定されるべきものだとも思わない。