物の怪との付き合い方と現代の精神医学

 昔からある『祓う』という行為は、精神医学におけるカウンセリングと同じ意味を持っていた場合が多いと聞いたことがある。確かに精神病は本当の意味で脳の病気といえるものはそう多くはないと思う*1し、性格や気質などによって取り巻く状況そのもの影響を受ける事も多いと思う。カウンセリングはそういった漠然としたモノに対して立ち向かって行かなくてはならず、まずはそもそも何が原因かを突き止めることから始めて、それに形を与える行為を行わなくてはならない。だけれども、いくら形を与えると言ったところで状況は状況だ。それは実体を持たず、実態も把握しにくい。大まかなとらえ方をすることは出来ても、曖昧模糊としてしまうのはしようがないことだと思う。そういった、当人が理解は出来ても自覚を持ちづらい状況把握が治療の妨げの一つになっているんじゃないかと思う。いや、そもそも受け入れにくいんじゃないだろうか? まず、カウンセリングにおいては自分の病気を認めることから始めなくてはいけないというけれど、その認めるという行為すらそうそう出来る事じゃない気がする。そして、状況が相手だと根本的な解決方法もそうそう見つかるモノじゃない。そういった面からも、やる気をそいでしまうという問題がある。
 だけれども、これを物の怪と例えてみたらどうだろうか? よく「物の怪には実体がない」というけれども――ただの言葉遊びだけれど――実態はつかめている。とすると、精神病にかかっている状態を『憑かれている』とした場合、憑いているのが何かさえわかれば対処方は自ずと見えてくるわけで、当人にとってはそのほうが構図が分かりやすくて受け入れやすいのではないだろうか? いや、と言うよりも自分の病気が他者*2のせいだと思った方がきっと受け入れやすい。そして、そういうモノだと受け入れてしまえれば『祓い』という治療も、個々の物の怪に対して対処法と手順*3がある程度確立している事による安心感も手伝って、現代社会におけるカウンセリングという治療よりも受け入れ安かったんじゃないだろうか?
 もしそうだとすると、きっとその効果は現代社会の精神医学に乗っ取ったカウンセリング*4よりも効果が高かったんじゃないかと、穿ったことを考えてみた。

*1:あくまで比率

*2:物の怪など

*3:始まりと終わりがきちんとある

*4:薬を使うモノではない