脱オタ論とアンチ脱オタ論が噛み合わない理由 補足っていうか完成版

 
脱オタ論とアンチ脱オタ論が噛み合わない理由 - 紫色の夕暮れ

えっと結論だけ書いちゃったので経路を書いてみますね。


 まず、脱オタもアンチ脱オタもアクティブな感情*1に基づく行動によって得られる利益については、その価値をどちらも認めている場合がほとんどです。で、意見が分かれているところはどこかというと、それを手に入れることが『可能』か『不可能』かって部分なんです。ここら辺で持ってる能力云々ってフレーズが出てくるわけですね。


 脱オタの場合「努力などによってそういった能力の部分はある程度改善可能で、改善すれば利益を得られる可能性はある」という。
 アンチ脱オタの場合「努力したところで能力の改善度はたかがしれていて、元から低すぎる我々は利益を得られない」という。


 ただココで勘違いしちゃいけないのは『可能性はゼロではない』って部分なんです。どちらも可能性があることは認めてる。しかし、可能性の高さの部分で意見が分かれてるんです。
 で、これは言い換えると次のようになります。


 可能性がある程度あると思っている脱オタは「その程度のリスクで尻込みするな、リスクに比べて得られる利益は大きいぞ」と言う。だから利益を得ようと口にする。
 可能性がほとんど無いと思っているアンチ脱オタは「ほとんど可能性なんて無いんだから、ムリして行動するなんて意味がない」と言う。だからリスクを避けようと口にする。


 そしてコレを簡潔に図にまとめるとこうなります。


脱オタ 利益 > リスク
アンチ 利益 < リスク


 つまり、ココでの争点はリスクと利益のどちらを重視するかであり、それが個人の感覚に委ねられている以上、いつまでたっても平行線だと言うわけです。

 以上、省きすぎてすいませんでした。



 しかし、こう考えてみると、大抵のオタク関係の議論って一生結論が出ない気がする。

*1:承認欲求など