知性を残し、感情だけを消せるか否か

 私は否と答えます。その理由を述べる前に、まず考えなくてはならないのは「知性」の定義です。そもそも「知性」とは何か? 
 知性を国語辞典で引くと


 ち‐せい【知性】名
[類語分類]学習/知識
感覚によって得られた物事を認識・判断し、思考によって新しい認識を生みだす精神の働き。知的能力。「─の豊かな人」

明鏡国語辞典 (C) Taishukan 2002-2006


 となるわけですが、要するに「認識」したものを「考え」て新しいモノを「生み出す」ことです。感覚に訴えかける表現になってしまいますが、高次元の精神活動、何て言い方もありかなと思います。
 ではコレを踏まえた上で順を追って考えていきたいのですが、知性と感情の相関をフロートチャートにしてみると以下のようになると私は考えます。

 認識・判断 → 思考+感情 → 新たな認識

 何故このような形になるのか? それは至極単純な話で、新しいモノを生み出すには不純物が必要だからというのがその理由です。要するに、あるがままをとらえたら「新たな認識」という表現は出来ないだろうというわけです。リンゴを認識し、記憶(データベース)に照らし合わせて、それはリンゴであると断定するにとどまるのは「照合」にすぎません。個人的な感想を踏まえてこその知性だと私は考えます。
 つまり、知性が「自ら考え、自ら動く」モノである以上、そこに感情無くして成り立たないというわけです。もし仮に、感情を消去してしまったならば、全ての行動はただのルーチンワークに過ぎなくなるはずです。どのような行為も、行動も、ただの反射の域を出ません。
 さて、ここまで来ると「人の感情そのものがただの反射に過ぎない」といったラプラスの魔を根底に置いた感じの反論が来たりすると思うのですが、それは突き詰めればの話であって、ここではその反射を感情と呼んでいることを理解していただけるとうれしいです。要するに、どこまでを反射と呼ぶかという範囲の問題ですね。巨視的な視点に置ける「反射」はここでは取り扱いません。
 
 というわけなのですがどうでしょうか? 皆さんはアンドロイドは電気羊の夢を見ると思いますか? 俺は見るんじゃないかなと思うのですがいかがでしょうか?